『劇場版少女歌劇レビュースタァライト』を見たオタクの考察 #スタァライト劇場版

こんにちは。

 

杉崎雪です。

 

『劇場版少女歌劇レビュースタァライト』を公開から3日で4回見たオタクの感想と考察について書きたいと思います。

 

映画を見た上なので当然ネタバレは含みます。ブシロライブで発表された時からの新参スタァライトオタクなので違うこと言ってたらすいません。

 

 

 

 

 

 

 

-------------以下ネタバレ含む----------------------------

 4回劇場版を見て大方「このシーンはこれが言いたいのかなぁ」ってなんとなく理解できるようにはなったのですが、2点だけどうしても劇場版を見ただけだと理解できないので考察したいなぁ、と思って考察書いています。スタァライトの全部追えているつもりですが、追えておらず「何言ってるの???」って思った点があったらコメントで指摘ください。

 

 まず1つ目が、Youtubeで公開されている5分間の冒頭部分です。劇場版公開前はここに最終シーンで戻ってくるものかと思っていたのですが、最終シーンは近いけど近くない終わり方を迎えています。

 

 次に2つ目が、皆殺しのレビューのシーンでなな"だけ"が全てを知ったような振る舞いができているのか?という点です。

 

 先に2つ目のなぜ大場なな"だけ"が知っていたのか?という点について考察しようと思います。

 TVアニメ版7話でなながレビューに勝ち「第99回聖翔祭をループ」する、という衝撃的な話がありました。"神楽ひかり"という異因子が紛れ込んだことにより、華恋のきらめきが強くなっていき、「なながトップスタァになり、第99回聖翔祭をループ」が崩れ、次の舞台「第100回聖翔祭」へと少女たちは進むことができました。その際に、ループを表現するためにアニメ版では下記画像のように表現されました。

確かになながいる円から華恋が外れてループから抜ける、ということを表現していますが、この画像をよく見て気づくことはありませんか?

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アニメ7話

 華恋の外にさらにおおきな円がありませんか?舞台の円、と言えばそれまでなのですが、聖翔祭のポスターもはみ出るほどの大きな円で囲われています。

 つまり、ななのループから抜け出していたと思っていた世界でもループしていると考えることはできませんか?

 劇場版でななが「再演の果てに舞台少女の死を見た」と言っているワンシーンがあります(記憶違いでなければ)。第99回聖翔祭をループしている中で「舞台少女の死」は見ていないはずで、第101回聖翔祭を誰一人かけることなく(ひかりは退学していますが)迎えようとしているということはななは舞台少女の死を見てはいないはずです。それにも関わらず"見た"と過去形と表現していることは、再度ループしていることの裏付けにならないでしょうか。

 ここで、ななは誰の「舞台少女の死」を見たのか、ということになるのですが、これが冒頭5分シーンでひかりが「さようなら、愛城華恋」といった後に華恋が飛ばされてトマトがつぶされるシーンが華恋の「舞台少女の死」を意味していて、ななは「愛城華恋の死」を見たのではないでしょうか。

 ロンドロンドロンドの最後で見てましたね(2021/6/27追記)

 さて、ここまでななが再度ループを繰り返している前提で進めていましたがなぜ繰り返す必要があったのか?ということですが、なな以外がループさせていて、気づいているのがななだけだった、という可能性も考えられます。

 第99回聖翔祭ループの際、ループさせたのは誰で、ループを終わらせたのは誰か、という点を考えると答えが見えてきそうです。ななはループを望みはしましたが、ループを起こしたのは"キリン"です。そして、ループを終わらせたのは、ひかりという異因子に影響を受けた華恋ですが、この異因子を舞台に投入したのは"キリン"です。つまり、いずれも"キリン"が第99回聖翔祭ループをはじめ終わらせたといえます。 

 ここで"キリン"が見たがっているものを思い出すと「続きが見たい」と言っています。つまり、スタァライトの結末の続きを見たがっていたが、思ったようなキラめきを感じることができない続きしか見ることができず、99期生が入学から卒業までをループさせていた、と考えられないでしょうか。(無理やり)。

 そして、第99回聖翔祭ループの記憶をすべて持つななは、ループの経験からループへの耐性があって、わずかながら選ばれなかった過去の中で「舞台少女の死」を始めとした記憶を持っていたみたいな可能性はないでしょうか。これを『大場なな"だけ"が知っていたのか』への回答としようと思います。

 そして、『Youtubeで公開されている5分間の冒頭部分』についてですが、上で述べたように"キリン"が失敗として認めた過去なのではないでしょうか。

 さて、なぜ繰り返していた99期生ループを"キリン"が終わらせて、エンドロールで99期生の卒業後に見ることができたのか?というの疑問に残ると思います。冒頭5分と本編の大きな違いはなんでしょうか。華恋が一度死に再生産して、華恋からもキラめきがでています。その時の舞台の名前が「ワイルドスクリーンバロック終幕」となっていました。「ワイルドスクリーンバロック終幕」が99期生ループを抜け出した証の舞台なのではないかと考えます。

 なぜ「ワイルドスクリーンバロック終幕」ができたのか……

 このままだと一生「なぜ…」でループしそうなので、ループを終わらせることができた理由について私が思っているのは、『"キリン"が舞台になった』だと思ってます。

冒頭5分の映像では「まにっ、まにっ、まにっ、まにっ……間に合わない!」と急いで運命の舞台へ走っていき、「もう終わってしまったのか?私は見逃してしまったのか?いや、違う、開演したのだ今!」と言っています。しかし、ループから抜けられた本編では、"キリン"は自身を燃料として燃やし、舞台となっています。"キリン"の見たかった舞台というのは、"キリン"が"観客"としてみる舞台ではなく、"キリン"自身が"舞台"となっている舞台だったのではないでしょうか。

 さて、"キリン"とは何者だったのかと考えると、観客です。つまり、"キリン"自身が舞台="観客"自身が舞台と考えられそうです。ここでいう観客とは、映画を見に行っている我々のことで、見に来ている人含めて舞台、といえそうです。

この語の『主演』は誰

 テーマソングにもなっている『私たちはもう舞台の上』ですが、上記を踏まえると

"私たち"の中に舞台少女以外に我々観客が含まれていて、『私たち(舞台少女と我々観客)はもう舞台の上』と言えるのではないでしょうか。

 

いい話で締められたと思うのでここでいったん考察は終わりにしようと思います。

(第101回聖翔祭決起集会で、九九組9人以外のA組の子(多分9人)が「私も演じてみたい!」的な声を上げていたり、真矢をはさんで3人並んでいるのに真矢なんていないかのように会話している2人がいたり、櫻木先生の部屋にいる写真が九九組がいる写真といない写真の2種貼ってあることから九九組9人は実は存在しなくて、99期生の作った「スタァライト」の空想の登場人物で、アニメ1話~劇場版ラストまでが99期生の作ったスタァライト説とか書こうとしてましたがさすが文章が長くなりそうなので別の機会に…)

 

映画の感想言いあいたいのでコメント欄に自由に色々書いてほしいです。

 

★杉崎雪★